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【本要約】田村耕太郎【地政学が最強の教養である】第5章 その他の地政学 中東

目次

その他の地政学の基本

リムランドでも地理により運命が変わる

中東・インド・東南アジア・ヨーロッパはハートランド・リムランド理論で説明したように、リムランドに位置する。

 

その中でも温暖な気候に恵まれ、騎馬民族の侵略を受けなかったヨーロッパは、社会が成熟し、封建制度を経て、資本家が誕生し、産業革命でテクノロジーと資本主義を使いこなして一気に発展していった。

 

東南アジアは気温が高く、ジャングルなど開墾が困難な地形が多く、マラリアなどの致死率の高い風土病も多く、後述するマンダラ型組織のため、統一国家が起こりにくかった。

 

インドは亜大陸と呼ばれる巨大な国だ。ヒマラヤ山脈が北方からの侵略を防ぐ防波堤の役割をしている。インド亜大陸は、ヨーロッパよりも広く、統一国家となった現在でも多くの民族と言語が存在する。

 

歴史的に、西はイラン高原アフガニスタンからのオリエント文明イスラム文明の浸透、東は東南アジアや北側のチベットを経由しての中国文明との交流、最近ではアラビア海ベンガル湾を含むインド洋を舞台にした海上交通によりアラブ・アフリカ・地中海世界、東はアメリカへの人材流出やアメリカからの投資による同国との交流が経済・社会・政治に影響を与えている。

 

気候の厳しい中東は、石油が発見されるまでは、食糧生産にも居住にも向かない人口の少ない状況であった。しかし、20世紀初め、石油の発見で状況は一変する。

 

中東の地政学

強すぎるオスマン帝国が西欧を強くした

歴史の中で中東が地政学的な存在感を持ったのはオスマン帝国の頃である。中東の中でも、食糧生産に向く地中海性気候の地形に恵まれ、アジアと欧州とアフリカをつなぐ交友の要衝の地であった今のトルコ近辺。ここを中心にオスマン帝国が誕生する。

 

このオスマン帝国の強さが、のちにヨーロッパを強くしてしまった。禍福は糾える縄の如し、である。西欧が陸路でアジアと貿易する際、その間にでんと構えるオスマン帝国が必ず介入し中抜きをしていた。これに懲りた西欧はアジアとの海上でも直接の交易路を模索し始める。これが「大航海時代」である。

 

18世紀初頭から、無敵を誇って西欧を圧迫していたオスマン帝国は西欧各国との戦争に徐々に圧倒され、アラビア半島まで押し込まれた。

 

石油の発見が不幸の始まり

しかし、20世紀になるとゲームチェンジャーの発見が起こる。「石油」の発見だ。ちょうどこの頃は、ガソリンエンジンや、石油ストーブ、街灯などが登場していたのだ。資源が地政学を変えてしまう代表的な事例だ。

 

これが今後、北極や南極の氷が溶けることや月や地球外の惑星を探査することで、さらに大きなスケールで起こるかもしれない。

 

そして「第一次世界大戦」で、オスマン・トルコ帝国は「ドイツ」側として参戦し、敗れたのである。戦勝国のイギリスとフランスは極秘に協定を結び、中東の多くの土地を分割して植民地化した。イギリスやフランスは歴史や宗派や民族性を考慮せず、勝手に国境線を引きまくり、これがのちの中東諸国の争いの根源となる。

 

イスラエル建国がパレスチナ問題の原点

第一次大戦後しばらくは、中東は「植民地支配」によってイギリスやフランスに支配されながらも安定していた。その情勢が大きく変わるのが第二次世界大戦後に起こったイスラエル建国である。

 

発端は第二次世界大戦ヒトラーが行なった、ホロコーストユダヤ人の虐殺だ。この時、多くのユダヤ人はその難を逃れ、戦後を迎える。その人たちは大戦前の居住国に戻らず中東を目指した。そもそもユダヤ人は古代にパレスチナに王国を建設していたからだ。

 

今のパレスチナのあたりは、古代には「肥沃な三日月地帯」であり、カナンの地と呼ばれ、ユダヤ人の祖先となるヘブライ人(イスラエル人)も移住してきた。その後、その子孫たちはエジプトに移住しエジプト人の奴隷とされてしまう。

 

その後、エジプトを脱出したヘブライ人は再びこの地域を征服し、紀元前11世紀頃にイスラエル王国を建設。そして内乱のためイスラエル王国は南北に分裂した。

 

ナチスホロコーストを受けて、ユダヤ人にとってパレスチナへの避難は急を要したが、パレスチナを統治するイギリスは移民を制限していた。戦時中多くのユダヤ人は義勇兵としてイギリス軍とともに戦い、イギリスの勝利に貢献。戦後、アメリカが中心となり、「強制収容所にいた10万人のユダヤ人のパレスチナへの移住」をイギリス政府に勧告したが、イギリス政府は難色を示す。これに過激派ユダヤ人が猛反発し、イギリス各地で過激な反英活動を行ない、ついにイギリスはパレスチナ統治を諦め、パレスチナイスラエル問題を国際連合の採決にゆだねた。国連の調査委員会を経て、ユダヤ人の国家とアラブ人の国家を創設する分割案が国連総会で採択された。

 

ここがパレスチナ問題の原点である。