ノーベル経済学賞を受賞したジャン・ティロールの著書『良き社会のための経済学(Economics for the Common Good)』。本書の導入部分である「序論(Introduction)」では、現代社会における市場経済の支配と、それに対する人々の不信感、そして私たちが目指すべき「共通善(Common Good)」について、深い考察が展開されています。この記事では、序論のキーポイントとなる「無知のベール」や「経済学の役割」について分かりやすく解説します。
- 市場経済の勝利と、失われた「共通善」
- 高まる不信感と怒り
- 「無知のベール」から考える理想の社会
- 「もし自分が、どのような立場で生まれるか分からなかったら?」
- 個人の利益と公共の利益の調和
- 経済学が共通善のためにできること
- 1. 目的と手段を明確に区別する
- 2. 共通善を達成するためのツール開発を支援する
- 本書の構成:旅のロードマップ
- まとめ:経済学は「陰鬱な科学」ではない
市場経済の勝利と、失われた「共通善」
計画経済が崩壊して以降、市場経済は私たちの社会において支配的なモデルとなりました。民営化やグローバリゼーション、自由競争の促進によって市場は拡大し、多くの恩恵をもたらしてきた一方で、人々の心と信頼を完全には掴んでいません。
多くの人々は、重要な公共の指針であるはずの「公共の福祉(共通善)」が、経済秩序の祭壇で犠牲にされたと感じているからです。
高まる不信感と怒り
世界中で、市場の優位性は広範な不信感をもって見られています。金融危機や不平等の拡大、気候変動への対処における指導者層の無能さにより、社会契約の崩壊や人間の尊厳の喪失を嘆く声が上がっています。「世界は売り物ではない」という言葉に象徴されるように、経済的な利益が人間の価値観や持続可能性よりも優先されることへの強い危機感が存在しています。
私たちは、共通善を見失ってしまったのでしょうか? もしそうなら、経済学はそれを再び追求するためにどのような役割を果たすことができるのでしょうか。
「無知のベール」から考える理想の社会
ティロールは、共通善を定義することに内在する恣意性を排除するために、哲学的な思考実験を提案しています。それが、哲学者ジョン・ロールズらが提唱した「無知のベール(Veil of Ignorance)」です。
「もし自分が、どのような立場で生まれるか分からなかったら?」
自分がまだ生まれておらず、以下のような条件を一切知らないと仮定してみましょう。
- 自分の性別や健康状態
- 裕福な家庭に生まれるか、貧しい家庭に生まれるか
- 教育を十分に受けられる環境か
- 宗教や民族的背景、育つ地域(大都市か田舎か)
このような「無知のベール」の背後に身を置いた状態で、自問するのです。
「自分にどのような可能性があるかを知った上で、あなたはどのような社会に住みたいだろうか?」
この問いかけは、私たち自身の今の属性や社会における立場から自らを切り離し、公平な視点から社会システムを考えることを要求します。
個人の利益と公共の利益の調和
理想の社会とは、「市民やリーダーが、自発的に個人的利益よりも共通の利益を常に優先する社会」ではありません。人間は、しばしば自己の利益を優先し、インセンティブに反応します。これを無視した過去の全体主義社会(「新しい人間」というソ連の神話に象徴される失敗)は、社会を貧困化させました。
重要なのは、個人が直面するインセンティブを理解し、個人の利益と公共の利益を可能な限り調和させるための「制度」を構築することです。市場経済もまたそれ自体が目的ではなく、共通善を達成するための手段の一つに過ぎません。
経済学が共通善のためにできること
ティロールによれば、経済学は単に私有財産や企業利益を最大化するためのものではなく、国家が自身の価値観を押し付けるための道具でもありません。経済学の本質的な目的は、「世界をより良い場所にすること」であり、公共の利益を促進する制度と政策を特定することにあります。
経済学は、公共の利益の追求に次の2つの方法で貢献できます。
1. 目的と手段を明確に区別する
残念ながら、市場のような制度や特定の権利、経済政策という「手段(道具)」がそれ自体で目的となり、本来の目的を見失ってしまうことがあります。経済学は、公共の利益に具現化された目標についての議論を深め、目的と手段を正しく位置づける役割を果たします。
2. 共通善を達成するためのツール開発を支援する
共通善の定義について社会的な合意が形成されれば、それを具体的に達成するための制度設計や政策ツールを経済学が提供します。たとえば、気候変動対策としての炭素排出量への価格設定や、共有財産である水資源の管理などがこれにあたります。
本書の構成:旅のロードマップ
本書『良き社会のための経済学』は、以下の5つの主要なテーマから構成されています。
- テーマ1
- 社会と経済学の関係
- テーマ2
- 経済学者の専門職
- テーマ3
- 経済的文脈における制度(国家と企業)
- テーマ4
- マクロ経済的課題(気候変動、労働市場、ユーロ、金融)
- テーマ5
- 産業的課題(競争政策、デジタル革命、イノベーション、公共サービス)
本書は、単に既存の答えを並べるのではなく、私たちの周りの世界をよりよく理解するためのツールを提供することを目的としています。経済学という学問の持つ定量的なアプローチと、個人・集団の行動研究を組み合わせた力を借りて、現代の大きな課題へと向き合っていきます。
まとめ:経済学は「陰鬱な科学」ではない
かつてトマス・カーライルによって「陰鬱な科学」と呼ばれた経済学ですが、ジャン・ティロールの描く経済学は、それとは対極にあります。経済学は、私たちが社会で直面する課題(失業、地球温暖化、不平等など)に対して、具体的な解決策を提示し、より良い公共政策を提案する力を秘めています。
私たちの直感や感情に惑わされることなく、「無知のベール」の向こう側にある誰もが納得できる社会システムを模索すること。それこそが、公共の利益(共通善)のための経済学の使命なのです。





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